Column:本棚の一冊
2016年5月1日号
『春の戴冠』


若き日に出会えた本
観光学部観光学科 舘野和子 教授



5度の引っ越しでも手放さずに数十年間持ち続けていた本の黄ばんだページを、今ふたたび開いている。子どものころは探偵小説好き。学生時代に至ってもその好みは変わらず早川書房のミステリマガジンを愛読していた私が、あるときに書店に立ち寄って手にした一冊が辻邦生氏の『春の戴冠』だった。

昔すぎてあまり思い出せないが、著名な作家だったことに加え、ハードカバーのしゃれた装丁が気になった。目次と最初のページで「わっ、ボッティチェリだ」と思ったことが買うきっかけだったように思う。

イタリア絵画の巨匠、サンドロ・ボッティチェルリの幼なじみによる回想録という設定だが、説明的ではなく主人公ボッティチェルリにもその他の登場人物たちにも生き生きと語らせ、(本の中で)ふるまわせるさまに引かれて、ついつい読み進めてしまうという魅力があった。 読者の外国への憧れをかき立てる材料も盛り込まれており、メディチの春という表現や花の都(フィオレンツァ)、市庁舎(シニョーリア)、広場(ピアッツァ)、工房(ボッテガ)のようにイタリア語で振ってあるルビもその一つだった。

そんな刺激を受けて、行ってみたい! フィレンツェに……と思えば、普通はすぐにでも出かけるはずなのに、実際に訪れたのは25年後というなんともいえない迂闊さが悔やまれる。 実際にウフィッツィ美術館でボッティチェリの作品に出会えた感動は表現しがたく、3日間通い詰めて眺めた華やかな絵の周りには、いつも人があふれていた。

探し歩いてやっと出会う本があれば、ふと出会う本もあり、相性が合うかどうかは読んでみないとわからないことがほとんどだが、夢中で読んだ本の記憶が直接、間接的に今の自分を支えたり、励ましたり、振り返らせたりすることは往々にしてある。

学生の皆さんにとって「若き日に出会えた本」がある、また、これからの出会いもあることを念じてやまない。

『春の戴冠』(上、下)
辻 邦生著
新潮社

 
たての・かずこ
1951年千葉県生まれ。千葉大学教育学部卒業。全日本空輸入社後、客室乗務員として乗務。定期国際線準備ワーキンググループメンバー。ANA総合研究所主席研究員を経て現職。専門は航空系サービス、ホスピタリティ。著書に『航空とホスピタリティ』(共著)がある。