Column:知の架け橋
2016年10月1日号
幸福を考える
文学部文明学科 村田憲郎 教授

幸福を見つめ直す哲学 シェーラーの価値倫理学

最近私は、自分の専門であるフッサールの弟子にあたる、マックス・シェーラーという哲学者の本を読み始めました。まだ最初ですが、面白いですよ。そこで彼は、カントの道徳哲学を自分なりの観点から批判しています。

ドイツの大哲学者イマヌエル・カントは、「善」と「幸福」とを切り離したことで知られています。カントより古い時代の哲学者たちは、人生の目標となる「よい」もの、つまり幸福が、いかに生きるべきかを考えるうえで主要なテーマだと見なしていましたが、カントはこれに真っ向から反対しました。

実際、人は自分の幸福の実現のために、しばしば道徳的でないことをしてしまいます。そこでカントは、人間の行いが善であるかどうかは、その目標がよい、望ましいものであるかどうかではなく、人間が人間として守るべき普遍的なルール(道徳法則と呼ばれます)を貫く意志を持つかどうかによって決まる、と主張しました。「よいもの」「よいこと」が初めから目標としてあるのではない、というわけです。

これは厳しい立場です。私利私欲を追求するわがままな行為はもちろんですが、世間的に「よい」とされるような行為でも、カントが善と見なさないものがあります。たとえば、賞賛されたいという理由で、あるいは後で非難されるのが嫌で(つまり自己保身のため)、川で溺れる子どもを助けるような場合です。しかし彼は、人の命という尊いものを守ったという点ではやはり「よいこと」をしたと言えるのではないでしょうか。さらには友情や同情心から人を助ける人でさえ、道徳法則ではなく感情に従うので善人ではないことになってしまいます。

カントのこの立場は考えるべき多くのことを含んでいますが、結果的に哲学が幸福について語る可能性を狭めてしまいました。人が生きるうえで出会うさまざまな価値あるものや、それについて抱くさまざまな感情を度外視する哲学は、大切なことを見落としていないでしょうか。

このような不満からシェーラーの道徳哲学は出発します。彼はカントが「よいもの」や目標の概念とともに、物質・財産の現世的な獲得・所有(「財」と訳されますが、英語では「グッズ」ですよね)を道徳から除外したことを評価しますが、その他の価値ある物事を一緒に手放すべきではないと考えます。そこで「価値」とは「物」そのものではなく、物が持ったり持たなかったりする性格であり、両者を区別すべきだというのがシェーラーの主張です。「赤」という色が赤い「物」そのものではないように、「価値」は個々の価値ある「物」から独立しており、こうした価値が集まって、物の世界と絡み合ったもう一つの世界の秩序、価値秩序をなしています。

そして、そうした価値に私たちが触れるのは「感情」を通してです。感情は意志や欲求と異なり、行為を通じた目標の実現を必ずしも目指すわけではありませんが、ときに私たちをより重要な仕方で現実世界とかかわらせてくれます。このようなシェーラーの哲学は、私たちが現代文明の中であらためて幸福とは何かを考える際に、何らかのヒントを与えてくれそうです。

 

むらた・のりお 1971年福岡県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。専門は哲学、とりわけフッサールの現象学。訳書にフッサール『間主観性の現象学』機Ν供Ν(共訳)など。