Column:本棚の一冊
2019年1月1日号
『源氏物語 上』 


あらゆる感情と向き合う
医学部看護学科 森屋宏美 講師



最近、行きつけの美容室で愛読書を尋ねられた。少し考えて『源氏物語』と答えたところ、鏡ごしに困惑した表情を浮かべる美容師が見え、クスっと笑ってしまった。

『源氏物語』は、平安時代中期に紫式部によって書かれた世界最古の長篇小説である。小学生のころ、アイドルグループ「光GENJI」と同じ名前の主人公「光源氏」に興味を持ち、大学受験の古文対策として、登場人物の複雑な関係性を理解するために完読。以後、幾度となくページをめくり、今に至る。

繰り返し読みたくなるには理由がある。それは、本書が70年にわたる一族の人生物語であり、時代をこえて誰もが経験した、またはこれから経験するであろうあらゆる感情に焦点を当てているからだ。私の職業である看護師は感情労働者ともいわれ、心の奥から湧き溢れる感情を管理し、ときに相手への共感を求められる。私は経験したことのない感情に触れたとき、これを理解するための糸口を『源氏物語』の中に探してきたように思う。

この物語の中で最も際立つ感情の一つに、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の懊悩(おうのう)がある。『思はじと思ふも物を思ふなり思はじとだに思はじやなぞ(思わないと思うこと自体が思っていて、そうでなければ思わないとも思わない)』。この感情の強さたるや、身体を離れ生霊として夜をさまようほどだ。本来の六条御息所は、才色兼備で思慮深い前春宮妃であるが、これほどの女性であっても、ときに自己の感情を管理できなくなることに驚かされる。

教員となった今は、源氏が生涯にわたり紫上(むらさきのうえ)を養育する姿を面白く感じる。源氏は10歳になる若紫(後の紫上)に教養を授け、理想の女性に育てようとする。しかし、成長した紫上は、源氏への恩を感じつつも、自己の世界をみつめるために出家を嘆願する。教育とは、対象者が「教育を受けたい」という意思を持って初めて成立するものと、つくづく思う。

『源氏物語』には多くの雅みやびやかな世界が描かれる一方、現代社会の問題に通ずる場面もちりばめられている。たとえば、光源氏の子の妻・雲居雁(くもいのかり)は子育てに協力しない夫を恨み、髭黒大将(ひげくろのたいしょう)は妻の介護に疲れて現実から逃避する。この物語は、千年前の暮らしから、普遍的な人の心の持ちようを垣間見ることのできる一冊である。

『源氏物語 上』 
原作:紫式部 
現代語訳:角田光代 
河出書房新社
(多くの現代語訳があるが、森屋講師が現在読んでいるのが角田氏訳。中巻まで既刊)

 
もりや・ひろみ 1977年愛知県生まれ。東海大学大学院健康科学研究科看護学専攻修了。看護師、保健師、ゲノム・メディカル・リサーチ・コーディネーター。専門は基礎看護、遺伝看護。