Column:知の架け橋
2011年10月1日号
「震災・防災を考える」
文学部広報メディア学科 水島久光 教授

「震災を/について」語ること
ことばへの不信を乗り越える


半年が経った。メディアが震災や原発問題をどのように扱ってきたか、この間さまざまなことが言われてきた。的を射ていることもあれば、「本当にそうだろうか?」と首をかしげたくなる物言いも多々あった。あれから間違いなく、「ことば」や「表現」に対する人々の目は、厳しくなった。その一方で、周囲を見回せば、何かを言うことにためらいを覚える人々も増えた。災害そのものが「ことば」を失わせているのではない。災害が浮かび上がらせた「社会」のゆがみが、コミュニケーションの機能障害をもたらしているのだ。

元来「ことば」には「すきま」がある。指し示す対象との間の埋めがたい「すきま」。「ことば」と「ことば」の間の意味の「すきま」。どこまで行っても「ことば」は現実とイコールになることはできないし、ジグソーパズルのように「ことば」によって世界を埋め尽くすことはできない。だから、わかりやすい答えが得られないことをもって、悪意があると断定することはできない。

「ただちに健康に影響を及ぼす数値ではない」ということばが物議を醸した。年間被曝(ひばく)基準量を20マイクロシーベルトにすることについても、多くのオブジェクションが飛び交った。気持ちはわかる。しかし、対立表現の構造は単純ではない。ある語の否定が、必ずしも肯定の意味にならないケースは多々あるし、基準はあくまで確率的に引かれた分節線でしかない。

「ことば」に対するいらだちが、「ことば」そのものを窒息させている。一方で、直接行動のハードルは、すっかり低くなってしまった。デモ、暴動、テロ、祭り、炎上、殺到するクレーム……。シュプレヒコールやレッテル貼(は)りは、冷静な意味解釈を拒絶する点で、彼らが糾弾する「隠蔽(いんぺい)」や「デマ」と同じ次元にある。同時に、感覚による連帯は「美的」に見えるが、その後ろには全体主義への危険なショートカットがある。

「ことば」を選ぶ覚悟を必要としないメディア・テクノロジーの普及が、この意味の貧困状況をますます加速させている。140字の、文脈をまとわないツイッターの「つぶやき」。現実を切り取るメッシュは確かに細かくなったが、ソーシャルは「社会」か「社交」なのか、ますますわからなくなった。ただの知り合いを「友達」と呼び、ぽちっとボタンを押す。人間と人間の関係が「つながり」によって短絡化しつつある。

この月日を経験して、改めて思う。「ことば」への不信は、それを封じることではなく、より多くの「ことば」を重ねることでしか乗り越えることはできない。語るべきことはたくさんある。自己検閲的に表現を委縮させている場合ではない。震災や原発事故そのものだけでなく、それらを通して見えた「われわれ」という存在の脆弱(ぜいじゃく)さについて、一人ひとりがもっともっと「ことば」をあらわにしていく必要がある。

メディアは、今こそその開かれた媒介者でなくてはならない。

 
(写真)震災によって破壊された気仙沼魚市場周辺の「風景」。その中にでも、語るべき要素はたくさんある

みずしま・ひさみつ 1961年東京都生まれ。慶應大学経済学部卒業(東京大学大学院学際情報学府修士課程修了)。専門はメディア論、情報記号論。著書に「テレビジョン・クライシス」などがある。