Column:本棚の一冊
2012年3月1日号
『モオツァルト・無常という事』


友が残した青春の一冊
教養学部芸術学科音楽学課程 梶井龍太郎 教授


遅刻の常習犯だった私は、その朝も駅から学校までの坂道を走っていた。前を歩いているクラスメートのU君を追い越したことに気づかず、後ろから「梶井。もう、どうせ遅刻」と声をかけられて振り向いた。落ち着きがなく騒々しい私は、口数も少なく穏やかにほほえんでいるようなU君とそれまでほとんど話をしたこともなかったが、これがきっかけとなってよく本の話をするようになった。

あるとき、自分がいちばんいいと思う作品をプレゼントし合うことになり、私が迷うことなく贈呈したのはA・デュマの『モンテ・クリスト伯』。U君からは『モオツァルト・無常という事』であった。こちらの本が、恋あり冒険ありの手に汗握る復讐劇なのに対し、U君の本はまったく何を言っているのかわからない。モーツァルトというから音楽についての話かと思えばそうでもなく、しかもこちらが5冊なのに対して、薄い1冊。つまらなくなって途中で読むのをやめてしまった私は、ひどく損をした気になった。

読後のU君の感想は、「子どものとき読んだ巌窟王かとバカにしていたけど、すごく面白かった。ありがとう」。私のほうはわからなかったとは言えず、「うん、まあ。いろいろな考え方があるものだね」などと答えた。きっと彼は私が読まなかったことをわかっていたと思う。

高校卒業後は会うこともなく、本もどこかにいってしまった。その後、彼は21歳のときに自ら命を絶った。それから7年後にドイツで暮らしていた私は、読む本がなくなって少し難解なものでも読んで時間を稼ごうと思い、ベルリンにある日本の本屋で、『モオツァルト』の古本を買って読むことにした。

外国生活での孤独、U君の死が重なり、文章の美しさ、生きること死ぬことなどが胸に迫り、「モーツァルトの音楽に感じる死の気配、澄み渡った美しさの楽曲の中に見える悲しみ」と同質の何かをこの文章の中にも見つけたような衝撃を受けた。「わかってくれたんだね」とU君がほほえんでいるような気がした。

私の好きな本は、今でも冒険小説や時代小説といわれる本であり、結局この歳になってもこの『モオツァルト』はよく理解できない。けれど、この本は私にとってかけがえのないものであり、若い人にぜひ読んでもらいたい一冊なのである。

『モオツァルト・無常という事』
小林秀雄著
新潮文庫

 
かじい・りゅうたろう 1957年東京都生まれ。教養学部長。東海大学大学院芸術学研究科修了。フンボルト大学哲学科博士課程修了。オペラ歌手。ベルリン国立歌劇場研修生を経てメクレンブルク州立劇場専属テノール歌手となり、欧州各地のオペラ劇場に客演。