Column:本棚の一冊
2012年10月1日号
『カツオ・マグロのひみつ』


遊泳マシン“マグロ”の素顔
海洋学部水産学科食品科学専攻 落合芳博 教授



一連の機能はおよそ4千万年前に獲得された。マグロ類の高度な遊泳能力のことである。細部まで洗練されたフォルムばかりでなく、目には見えない分子のレベルまで進化の限りを尽くした芸術品といえよう。機械仕掛けともいえる究極の遊泳マシンである。時速100舛鬚海垢海箸發△襯好圈璽鼻2種類の筋肉を使い分けてエネルギー効率を高め、しかも疲労をためない仕掛け、かつ体温を絶妙に制御し、速くもゆっくりも泳げる。オリンピックの水泳選手は時速8措紊箸いΔら、100という数字は驚異的だ。高速で泳ぐことに徹した、筆舌に尽くし難いほどの完成度である。
 
マグロは古くから世界の人々を魅了し、論文に見るだけでも、90年来の研究の歴史がある。我が国では、縄文時代の貝塚に、マグロの骨が見いだされている。ろくな漁具もない時代に、いかにしてかくも高速で泳ぎ回る魚を獲ったのだろうか?
 
さて本書は、筆者がマグロにかかわって30年来の経験と、専門の生化学についての造詣をもとに、さまざまなエピソードを交え、一般向けに著した力作である。紙面を割いてマグロの生化学的側面が丁寧に説明されており、高速の泳ぎの舞台裏ではさまざまな化学反応が進行する。マグロに関する驚きの事実が満載で、前述のことはほとんど本書の受け売りである。著者によれば、マグロにはまだ謎の部分も多く残されている。これがまた、マグロの魅力でもある。産まれてから死ぬまで、眠りながらも泳ぎ続けなければならないとは、悲惨な運命にも思える。そんな心配をよそにマグロたちは大海原を縦横無尽に泳ぎ回るどころか深海までをも制覇し、ダイナミックな営みを続けている。

この自然の造形品は、ご存じのとおり、究極の食品(刺し身)ともなる。質の良いものは眺めてよし、食べてよし、非の打ちどころがない。マグロの刺し身や握りずしを食べる機会があったら、「生前」のみなぎる生命力に思いを馳せるのも一興であろう。ただし、決して食べられるためにつくられたものではなく、泳ぎに徹した結果であることを忘れないでいただきたい。厳しい環境に置かれるほど、肉の赤みは増し、食指を動かさずにはいられない。養殖マグロが食卓に上り始めた昨今、それでも大海原を自由に駆ける天然マグロにこだわるのは、筆者だけではあるまい。


『カツオ・マグロのひみつ 驚異の遊泳能力を探る』
阿部宏喜著
恒星社厚生閣
 
おちあい・よしひろ
1957年神奈川県生まれ。東京大学大学院農学系研究科修士課程修了。農学博士。専門は水産化学、食品生化学。