Column:知の架け橋
2012年10月1日号
「震災・防災を考える」
医学部医学科 中川儀英 准教授
医学部の“体力”と組織力で支援
石巻市災害医療派遣を振り返って


東日本大震災から1年半が経った。被災地は今どうなっているか、思いを寄せる。被災地に医療支援に行ったメンバーと、その後どこまで復興したのかを実際に訪ねてみたいとよく話している。

医学部としては、大きく二つの医療支援活動を行った。一つはDMATとしての活動である。DMATとは、医師、看護師、事務で一チームが構成され、厚生労働省からの要請に応じて災害発生直後に被災地へ医療支援に赴く全国規模の組織である。東日本大震災では約350のチームが全国から集まり活動した。医学部からは神奈川DMATとして、羽田空港に待機し、被災地から空路搬送されてくる傷病者に対応した。もう一つは、宮城県石巻市に赴いての医療支援である。石巻市は津波による被害が最も大きかった地域の一つである。この医療支援は、発災10日目に宮城県知事が文部科学大臣に医療支援の要請をし、文科省より東北大学を窓口として、全国の大学病院に医療チーム派遣要請がなされたことに応えたものである。

災害医療はニーズを適切に把握しなければならない。事前に東北大学と医療支援のあり方について何回か電話で打ち合わせを行ったところ、被災地側のニーズは石巻市への長期医療支援というものだった。震災後に全国から無数のボランティアが被災地に駆けつけた。しかし多くは数日間だけの単発的なものに終わってしまう。そのような中、東北大学からのリクエストは東海大学医学部に石巻市の一つの地域を1カ月余りの間、継続して支援を行ってもらいたいというものだった。

石巻市は、市の海側が津波で被災し壊滅状態であった。医療機関、公的機関も被災し、また通信網も遮断され、被災状況の全貌が数日を経過しても不明な状態であった。石巻日赤病院は被災を免れたために、石巻市災害医療の拠点となっていた。我々が到着した際には全国から日赤を中心とした医療支援隊が参集していた。石巻日赤の救急外来では、発災2日目には1000人をこえる傷病者が来院、その後も毎日約300人ペースで傷病者の診療を行っていた。その一方で石巻市内の被災状況については不明で、どこにどれだけの救護所があり、傷病者がどれくらいいるのかの全貌がわからずにいたため、独自の調査隊を組織し、1週間かけて石巻市内の被災状況を明らかにした。そのうえで医療救護の戦略として市内を何カ所かのエリアに分割し、それぞれに医療救護班を送るというのが石巻日赤側が立てた医療戦略であり、我々はその一つのエリアを任されることになった。

東海大は医療支援隊を発災17日目の3月27日から5月2日まで、全12隊(医師25名、看護師25名、事務13名、薬剤師5名)を派遣した。この間、救護所で診療した傷病者は788名に及んだ。主に内科疾患が多く、呼吸器疾患、消化器疾患、そして慢性疾患の増悪が多かった。振り返ると、一つの医療機関が継続して交代で医療チームを派遣するという医療支援は、時相とともに変化していく地域の医療ニーズを把握していくうえで有用であった。こういった支援が可能だったのは、医学部の狢領〞、組織力があったからにほかならない。また、ニーズを把握するうえでは情報収集能力が重要である。震災直後は日常の情報ツールがほとんど役に立たなくなった。今回の医療支援を通して、大震災時にも活用できる情報ツールは必要だと考える。

 

(写真)被災地で直接、医療支援のニーズを聞き出す

なかがわ・よしひで 1962年東京・浅草生まれ。87年東海大学医学部卒業。東海大学医学部付属病院高度救命救急センター次長。専門は心肺蘇生、外傷、ドクターヘリ。