Column:知の架け橋
2013年1月1日号
「震災・防災を考える」
観光学部観光学科 本田量久 准教授
心に刻み込み、語り継ぐ
東北の人たちと新しい歴史を紡ぐ



雪まじりの曇り空の下、警報のサイレン、避難勧告のアナウンス、人の叫び声が響き渡る。津波が押し寄せ、防波堤、橋、工場、家屋を破壊し、船舶、電柱、自販機、自動車など、あらゆるものを押し流しながら、一気に街をのみ込んでいく。Youtubeの動画が終わり、いつもと同じ静寂な自室でふと我に返る。破壊的な津波の映像に心を支配されて、自分が今生きる現実世界が実感できない。3・11からしばらくの間、スクリーンの向こうで広がる非日常的な世界の疑似体験を繰り返した。

それから約半年後、瓦礫撤去活動で初めて宮城県沿岸部の被災地に入った。すでに3・11は過去の出来事だったはずである。しかし、半年を経てもなお私たちが立ち入った地域では3・11は現在進行形であり、また3・11から時は止まったかのようでもあった。ボランティアに休憩所を提供していた民宿には津波の瞬間を刻んだままの時計が壁に掛かっていた。1945年8月6日からずっと8時15分を指したまま止まっている「あの時計」と同じように。

それ以降もたびたび東北地方の被災地を訪れ歩き回った。すでに瓦礫は撤去されていても、陥没した道路、折れ曲がって倒れた信号機、押し流された住宅跡、倒壊した建造物が生々しく3・11の衝撃を伝えてくれる。

たとえば、宮城県南三陸町に鉄筋だけが残る3階建ての防災対策庁舎が立っている。かの職員は、10メートルを超す津波に襲われる直前まで地元住民に避難を訴え続け、最期まで職務を全うしたことでメディアで広く報道された。防災対策庁舎は、津波の規模と破壊力を示すとともに、彼女が「あの瞬間」まで生き抜いた象徴としても存在し続けるだろう。実際に、そこには関係者や地元住民のみならず、他地域から多くの人が訪れ、花束や千羽鶴を供えている。防災対策庁舎で殉職した職員たちの存在は、今も人々の記憶に深く刻み込まれている。

人間は、ある出来事を自ら体験しなくても、時空をこえて他者の記憶を共有し、それを他者に語り継ぐことによって歴史を紡いでいく存在である。そして、このような記憶の連鎖はひとびとに時空をこえた共感を与える。

この1年半に被災地で出会った多くの地元住民から「忘れないでほしい」と言われた。3・11は、地元住民にとってはなおも現在進行形の現実であるが、被災地を離れると3・11はすっかり過去の出来事になっており、また3・11の記憶は風化しつつある。被災地を孤立させてはならない。ある地元住民が「人が来てくれるだけで安心するんだよね」とつぶやいたのが忘れられない。10年後の東北地方はどのようになっているのだろうか。東北の人たちとともに歩みながら、新しい歴史を紡いでいきたい。

 
(写真)津波で鉄筋だけが残った南三陸町防災対策庁舎では、南三陸町の「語り部」が観光客に自らの震災体験を伝えている(2012年2月筆者撮影)

ほんだ・かずひさ 1973年神奈川県生まれ。立教大学社会学部卒業、同大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)。専門は社会学理論など。2011年8月から東北地方各地を訪問する一方で、観光による震災復興の可能性について学生たちと議論を重ねている。