Column:本棚の一冊
2013年3月1日号
『冬の霧 立ちて』


豊かな人生の水先案内人
文学部心理・社会学科 大山七穂 教授



なぜこの本を手にすることになったのかは、もう覚えていない。しかし学生のころ、大学構内の片隅にあった喫茶店で夢中になって読んでいたことは覚えている。窓からは、太いケヤキのような木が葉を落としてたたずんでいるのが見えた。
 
この本は、作家辻邦生氏がパリ大学で日本文学について講義をするために1年間フランスに滞在した日々を、日記のように記録したものである。この本とともに、『夏の光満ちて』『春の風駆けて』が出版されているが、すべて「パリの時」という副題がついている。今だったら、ブログやフェイスブックに書き記すようなものであろうか。
 
1980年代前半の当時、若い学生たちにとって外国はまだ遠い存在だった。大学の卒業旅行で海外ツアーに出かける人もいたが、恵まれた一部の人たちだった。そのような中、私もいつかは外国に出かけたいと考えていた。中でもパリはあこがれの地であった。この本に「ふつうに」登場する凱旋門やシャンゼリゼ通り、モンマルトル、カルティエ・ラタンといった名称とともに、ムフタール街やデカルト街など聞いたこともない通りの名前に胸をときめかせ、どんなところだろうと想像を膨らませながら、読み進めていった。
 
大学で授業をするだけでなく、オペラや映画を見たり教会や美術館を回ったり、人と会って食事をしたり、街角でパンを買ったり料理をしたりと、辻氏の実に充実した「パリの時」に嘆息した。豊かな日々の記録と美しい文体にすっかり魅了され、読みふけっていたのがパリの学生街の喫茶店であり、窓から見えるのはパリ市内の街路樹であるかのような錯覚につい陥ったものである。
 
あれから3度パリを訪れる機会があり、ほかの国々を訪ねたり住んだりする機会にも恵まれた。そうした折に思うことは、それぞれの地に溶け込んだ人々の普段着の暮らしと生きざまに触れるような経験が楽しくもあり、人生を豊かにしてくれるということだ。そのためには良質のガイドが必要だが、私にとって旅のガイドとなり、豊かな人生の水先案内人となったのがこの本である。

『冬の霧 立ちて』
辻邦生著
中央公論社

 
おおやま・なお 1958年千葉県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。1994年に東海大学文学部に着任。共著に『地域社会における女性と政治』『心の“ゆらぎ”と社会の変化』