Column:本棚の一冊
2010年6月1日号
『デミアン』


悩みの中で出会えた1冊
総合教育センター 佐藤恵子教授



学生時代の私は、ちょっと不機嫌で反抗的な人間でした。折しも学生運動が終息したころで、その反動だったのか私たちの年代はノンポリが多く、家庭でも学校でも安穏とした事なかれ主義のムードに包まれていました。高校までは特に、親や教師の意向に対して従順で利発で明るい子どもでいてほしいという暗黙の圧力がありました。女性であることも制約を受ける種になりました。皆が勝手に作ってくれた私のイメージ、未来に敷かれたレール。それに従っていけば、幸せになるのかもしれないけれど、それって本当の私ではないでしょう。自分のことは自分で決めて、自分らしく生きたい。でも本当の自分って一体何だろうか。どう生きればいいのだろう。

こんなふうに悩んでいたころに巡り合った本の1冊が、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』です。冒頭の「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したに過ぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか」という言葉が目を引きました。ヘッセはドイツの有名な作家ですが、今の若い人たちは知らないかもしれません。この本は、第一次世界大戦に突入するヨーロッパの精神的な変動を、エーミールという少年の心理的葛藤と成長により象徴した作品です。彼を精神的に導くのが、デミアンという凛とした美しい若者。そこには、新しい自分の生き方を見いだすための、実に考えさせられる暗示的なフレーズが満載でした。

特に私が魅かれたのは「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」というフレーズです。これは、当時の私の心にすとんと来ました。〈本当の自分らしい生き方を探すならば、まずは今までの自分という殻を割って自力で外へ出ないといけない。無意識に安住していた世界を批判的に抜け出るためには破壊的なエネルギーを必要とするので、傷つく覚悟がいるし、自分らしい生き方を見つけるには、さらに多くを体験し、新しい知識や思想を学ばねばならない〉と勝手に解釈し、妙に納得したものです。

その後の私は結構多難な人生を歩むことになったので、若い人への参考にはならないのですが、これだけは言えるかな。悩んだ分だけ人間は強くなれそうです。

『デミアン』
ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳(新潮文庫)

 
さとう・けいこ 東京都生まれ。東京大学薬学部卒業。同大学大学院総合文化研究科(比較文学比較文化)修了。専門は科学思想史。共著に『科学思想史』(勁草書房近刊)など。