Column:本棚の一冊
2014年3月1日号
『春宵十話』


人生の北極星となった本
海洋学部水産学科生物生産学専攻 武藤文人 准教授



人生の指針となった本がある。出会いの順に述べれば、『シートン動物記』『沈黙の春』『岡潔集』『風姿花伝』である。岡潔氏は、著名な数学者である。岡潔集は、氏のエッセーや対談を集成したもので、復刻版が学術出版会より出ているが、かなり高額だ。『春宵十話』はここに収録されていた代表的なエッセイで、独立して文庫で出版されている。ぜひとも手にとっていただきたい。
 
高校2年の初夏。体育会系の部活動をやめて図書室に入り浸り、視力が2・0から0・1に低下したころ、岡潔集に出会った。17歳とは人生のモデルに渇望する時期だ。たちまち私は氏のとりこになった。爾来(じらい)、高校卒業後は同じ高校に進学した3歳違いの弟を通じて同書を借り出し、何度となく読んだ。岡潔氏の随筆の内容や魅力をひと口に説明するのは難しい。氏はごく少数の命題について、考えを突き詰め、研ぎ澄まされた解答を示している。命題を3つに表せば、「人生の優先順位の決定」「学習と思考力の集中」そして「若者の教育」となろう。氏の推断は相当に鋭い。そして、氏のように生きるのはなかなか難しい。
 
氏は数学において難しい問題から解く。曰(いわ)く、解き方は覚えてはいけない。繰り返し学習して解法に習熟してもいけない。そうして氏は人生で解けなかった数学の問題は2題だけだった、という。が、しかし……この方法で受験数学を乗りきるのは相当に困難だったと告白しておこう。
 
1年の浪人の後、最後には禁を破り、参考書の解法を丸暗記してしのがざるを得なかった。また、氏は数学の発見において、ポアンカレが述べるような、隅々までが晴れ渡って明らかになるような境地は余計なものであるという。そして、発見には鋭い喜びが伴うという。当方も研究の三昧境の中で、発見の鋭い喜びを味わいたいと夢想した。その時はいまだに訪れていない。
 
氏の教育論は、動物としての人間ではなく、人間としての人間を育てるものである。動物としての人間とは、自我とか小我である。そうしてみると、氏がお亡くなりになって36年、我々はより禽獣に近い存在と成り果てたように思えてならない。大学教育の機会を得て4年目になろうとしている。今度こそ(?)、自らを律し、極北を目指したい。

『春宵十話』
岡 潔 著
光文社文庫

 
むとう・ふみひと 1965年神奈川県生まれ。秋田県、千葉県、宮城県で育ち、北海道大学大学院水産学研究科で博士号取得。TRAFFICEast Asia、東京大学海洋研究所、遠洋水産研究所などを経て現職。専門は魚類学、水産学。