Column:本棚の一冊
2010年11月1日号
『脂肪の塊・テリエ館』


うずくまって読んだ一冊
文学部広報メディア学科 谷岡理香准教授



身の置き場というか、心の置きどころがないように感じていた学生時代であった。自分は何者なのか、何をしたいのか、大学に入れば分かると思いこんでいたが、授業に新しい発見もなく(つまり自分にやる気がない)、心の奥にマグマのように溜まったエネルギーの発露を見つけられず悶々としていた。そんなころに読んだ一冊が『脂肪の塊』であった。タイトルにひかれて買った記憶がある。勉強もろくにせずに、部室という居場所を確保するためだけにクラブ活動をして、あとは怠惰にうずくまっているような自分の存在を、単なる脂肪の塊のように感じていた。

読んだ当時は、物語の主人公である救われない娼婦(彼女のあだ名が「脂肪の塊」)に自分を重ね、「世の中って、こういうものなのか」とため息をつく。もう本はうんざりだ。誰かに直接生き方を学びたかった。大人たちは何を心の糧にして生きてきたのか。いろいろな大人の話を直接聞きたかった。その後、私は放送の世界に入る。溜まっていたエネルギーはすべて仕事に向かっていった。たくさんの質問を抱えて、多くの有名・無名の人たちに話を聞きに行った。強烈な個性の持ち主たちの人生にも触れた。放送の仕事を通して、体験した人のみが持つ声の力や言葉の重さを知るとともに、時と空間を超えて語りかけてくれる本の存在の大きさも実感する。気づきの「時」というのは、人それぞれにやってくるのかもしれない。 
  
今、長い時を経て、あらためてこの『脂肪の塊』を読み直すと、モーパッサンの社会を見る視点に驚かされる。人を人たらしめるものは何なのか。階級、差別、支配、権力といったキーワードが登場人物のせりふや態度の中によく現れている。さらに、こうしたキーワードが、私自身のその後の仕事や研究の核となっていることに気づく。関係のない本を手当たり次第読んでいたと思っていたが、多くのことは一つの線でつながっているのだとも感じる。

学生時代の私は、「自分探し」を授業をさぼる理由にしていた。怠惰な自分への言い訳だ。豊富な知識を持った研究者や多様な価値観を持つプロフェッショナルがいる大学という場にいながら、何ともったいないことをしてしまったことか。今の学生の皆には、先生たちからたくさん吸収してもらいたい。私の後悔からのアドバイスである。

『脂肪の塊・テリエ館』
モーパッサン著、青柳瑞穂訳(新潮文庫)

 
たにおか・りか 1956年広島県生まれ。青山学院大学文学部卒業。専門はジェンダーとメディア。著書に『キーワードで読み解く現代のジャーナリズム』(共著)などがある。