Column:本棚の一冊
2014年6月1日号
『白鯨』(上・中・下)


読書の航海から戻って
健康科学部社会福祉学科  小林 理 准教授



「私は、財布のカネを使い果たし、陸上には何一つ興味を惹くものがなくなった。風のふきわたる丘の上に寝そべり、岬や港町そして波止場を見下ろしながら、遠い荒海やパタゴニヤ的雄偉な光景を夢想する。かくして、私は、一介の水夫になり海にゆく。」

これは、冒頭で、主人公が捕鯨船員となり大海原へ旅立つ際に展開する場面である。メルヴィルの大著『白鯨』に出会うきっかけは、学生時代に「読まされて」いた社会科学の学術書から逃避するため、そこに出てきた本書を手に取ったことであった。当時の筆者は学問の知的好奇心の扉の外にいて、将来への漠然とした不安の渦中にいた。興味を持てぬ本を読まねばならない現実から逃避したのだ。あるいは、陸上に興味を持てず大海原へ旅立つ本書の主人公の心情に無意識の共感を覚えたのかもしれない。

現実逃避であれ、感情移入であれ、その後、筆者は本書に没頭した。これほどまで本にのめり込んだことはなく、2年にわたり読み続けたのである。スヌーピーは、盟友ウッドストックにトルストイの『戦争と平和』を毎日1語ずつ読み聞かせたというが、2年も読み続けたのは読むスピードのあまりの遅さだけではない。読み進めるうちに本書が当初とは異なった顔を見せたからである。冒険小説の体裁をとる本書は、実のところ海洋学術図鑑としての真の姿を顕したのであった。

かくして、約2年にわたる読書の航海を経て、筆者は元いた現実世界に戻ってきた。しかし、筆者は元の筆者ではなかった。科学とは、詳細な事実に裏打ちされるときに、最も美しく誰にとってもわかりやすいコミュニケーションの方法となる、ということを学んだのである。科学による精緻なストーリーは、最も専門から遠い読者にとって優しく、そして最も厳しい専門家の視線に対して耐え得る強さを持つ。こうして、自己陶酔に浸ったまま、学生の筆者は知的好奇心の扉に手をかけたのである。

今でも本書は研究室の隅に他の学術書とともに置かれている。数年に一人は、この本に目を留める学生がいる。筆者はひそかにニヤリとする。ほとんどの時間は本書のことは忘れている。ところが、ふとしたきっかけで思い出すと、学生時代に本を読み、物事を捉え直す際の新鮮で静かな興奮がよみがえってくるのである。


『白鯨』(上・中・下)
ハーマン・メルヴィル著
八木敏雄訳(岩波文庫)

 
こばやし・おさむ 1971年静岡県生まれ。法政大学大学院社会学専攻修了。著書に『子どもと家庭の支援と社会福祉』(ミネルヴァ書房、共編著)など。専門は子ども家庭福祉。