Column:Point Of View
2014年6月1日号
国際化ということ
文学部日本文学科 出口智之 准教授

ドイツ・ミュンヘン空港から市街までの電車でのこと。空港駅にて確認して乗ったのだが、いつまで経っても目的のミュンヘン・オスト駅に着かない。車窓の田園風景がやがて住宅街になり、ビル群になってもそれらしい駅はなく、列車は再び郊外に向かう様子である。不審に思っていると、車内放送で何やら、次の駅での乗り換え案内などが始まった。

よくはわからないが、何かおかしい。ミュンヘン・オストは確かに大きい駅だが、断片的に聞き取れたほどに、長距離列車や国際特急が多数出てはいないはず。慌てておりると、そこはもうミュンヘン市街を通り越したパジング駅。このときはかろうじて事なきを得たが、不審に思って帰国後に調べると、なんとその週末だけ、工事のために一部の列車がミュンヘン・オストを通過していたのだった。

一方、これも同じドイツ・ケルンからフランクフルト空港に向かう長距離列車の車中で。その日はもともとダイヤが乱れていたのだが、ついにある田舎の駅で列車が完全に止まってしまった。フライトまでの時間には余裕があったとはいえ、いささか心配していると、別のホームに来る列車に乗り換えろとのアナウンス。これに従い、さほど遅れずに空港に到着できたのだった。

どちらも結果的には何事もなかったとはいえ、この2度の体験でスムーズさを分けたのは、英語放送の有無だった。後者は車掌がドイツ語に続いて英語でもアナウンスをした一方、ミュンヘンではそれがなかったのだ。学生時代、ほんの少しドイツ語をかじっていたおかげで漠然と推察できたものの、これがほかの言語なら何もわからなかっただろう。

さて、日本である。東京五輪も決まり、街には多国語の機械放送や案内板が増えている。確かにないよりはあったほうが便利だろうが、しかし日本語を解さない人たちにとって本当に重要なのは、こういうトラブル時の、状況に即した多国語案内なのだ。今のところ、説明や指示の肉声放送が日本語以外で行われたのを聞いたことはないが、さあどうする、オモテナシの国よ。

(筆者は毎号交替します)

 
でぐち・ともゆき 1981年愛知県生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(文学)。専門は明治時代の日本文学。