特集:キャンパス展望
2010年8月1日号
「集う」とは何かの再確認を
法学部法律学科 菊池京子 教授

冒頭から私事を語ることになって恐縮だが、私には高校3年生の息子がいる。高校入学時に専門医の診断でアスペルガーと判明した。小さいころから「普通の子ども」という概念から著しく逸脱していた。そう言うと、「『普通』の子なんていない」とか「子どもは皆、個性的」などの言葉をいただきもするのだが、一目見ればこの言葉が単に無意味な虚しいなぐさめでしかないことが分かるほど、彼は突出した「変わり者」だった。彼は学校も好きだし勉強も好きだ。自らの関心対象に対しての集中力と記憶力は、超人的かと思われるものを持つ。したがって、大学で関心分野を研究したいという気持ちも強い。しかし問題は、彼は友人関係を必要としないということだ。彼は高校のグループ授業に参加するが、その場のその役割関係が終われば、彼にとってのその対象との関係はその時点で終わるようなのである。友達はいらない、ひとりでいい、と彼は言う。加えて、彼は言葉によるコミュニケーションが苦手である上、自分の世界の中でものごとを完結させる。このような彼だから、他の「変わり者」要素も相まって、当然に社会にすんなり受け入れられがたい。誤解されることも多く、いじめの対象にもなる。

さて、我が大学のキャンパスに目を向けると、我が息子ほどには至らないが、多かれ少なかれ、大学という社会にすんなり入っていけない、あるいは入ろうとしない学生たちが、最近とみに目につくようになった。それは、私に社会適応性障害の息子がいるために、つい過敏にそう思えるだけなのか、あるいは、だからこそ敏感に気づくのか分からない。

しかし、実際にたくさんの学生と日常的に接している中で、特にこの数年、大学内での人間関係がうまく作れないとか、大学という社会の中に自らの立ち位置が見つからないとか、大学という社会の入口で立ち止まっていると思えるような相談を多数受けるようになっているから、そういう学生たちが目につくようになったのは錯覚ではなかろう。
 
もちろん、私が学生のころにも同様の同級生は少なからずいた。今と違っているのは、そのころは、各自が各自の個性で各自のライフスタイルを持って学生生活をしており、そのような学生生活を貫くことが決して彼らの苦痛にはなっていなかったことである。しかし今は、それが認められにくい社会になってきているのであろう。だからこそ、人間関係がうまく作れないとか、自らの立ち位置が見つからないとかの悩みとなり、そうなると、大学生活の数年間はその悩みを抱えたまま、ただ卒業するためだけに、苦痛を耐えて過ごすことにもなろう。大学にはいろいろな学生が集っている。社会が観念的に描く望まれる学生像そのものの者もいれば、他方、社会にうまく適応できずに不器用なまま4年間を送る者も、残酷にもはじき出されてしまう者もいる。

今、「集う」とは何かと問うとき、我々はそのような彼らを含めて「集う」ことの意義を再確認する必要があるかもしれない。社会の構成員のひとりであると自らを肯定すること自体が「集う」ことであってもいい。

※筆者注=アスペルガーと一言で言っても多様な個性があるので、我が息子の個性がそのすべてではありません。
 
きくち・きょうこ 1951年神奈川県生まれ。上智大学法学部法律学科卒業。一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。専門は刑事法。