Column:本棚の一冊
2018年5月1日号
『考えるヒント』
“本当の”考えるヒント
工学部材料科学科 源馬龍太 講師
高校生や大学生のころは、図書館や父親の本棚をあさって濫読することが多かった。高い棚に手を伸ばすと、目当ての本とは別の本が思いがけず一緒に落ちてくることがある。ここで紹介する『考えるヒント』も、そんなふうに棚からするりと私の手に落ちてきた一冊である。
著者の小林秀雄は言わずと知れた著名な批評家(文芸評論家)だが、文章がしばしば難解だといわれる。
当時高校生だった私は、ぺらぺらとページをめくり、すぐに挫折した。批評文のような、詩のような、随筆のような文章が散らばっていて、何だかよくわからない。テーマも、桜についてだったり、国家についてだったりと、際限がない。ただ、文章に妙な引力がある。そこで結局、何度も同じところを読む羽目になる。長いことそうしていると、読むというよりは眺めるような気持ちでページをめくっていたりする。不思議なことに、こういうときに、この本の文章はスッと心の中に入ってくる。なんとも不器用な読み方と思われるかもしれないが、近ごろは、こういう読書が大切ではないかと思うようになった。 本を閉じると、『考えるヒント』という題が目に入る。「考える人」のダジャレかもしれない。このタイトルは、編集者がつけたらしい。秀逸だと思う。小林秀雄という人はまさに考える人で、文中、たとえばこんな一節がある。
「考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿げた事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。」
こういう箴言のような言い回しが所々にあり、これだけでもハッとさせられる。一方で、まるで江戸っ子気質の親父がとつとつと語り出すような、静かな趣をたたえた言葉にも出会う。私には、こちらが本物の小林に見える。本当に言いたいことや大切なことは、なかなかうまく伝えられない、という厄介な「常識」を、精いっぱい伝えようとしている著者の姿が見えてきて、美しい。だから、この本をずっと眺めることができるのかなとも思う。今では私の本棚の、最も大切な一冊である。
『考えるヒント』
小林秀雄著
文春文庫