Column:本棚の一冊
2018年12月1日号
『古井由吉自撰作品三 栖/椋鳥』
「感染」してしまうということ
文化社会学部文芸創作学科 倉数 茂 准教授
小説ってとてつもないものだと気づいたのは高校生のとき。たまたま家にあったドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだのだった。それまで本というのは楽しみのため、娯楽のためにあるのだと思っていたのだけど、それだけではないと驚かされた。読んでいる間は苦しくて辛いのに、読み終えたあと、世界がより広く、深くなったように感じられる。そういう読書があるのだと知った。
それ以来、文学全集に入っているような名作を手当たり次第に読んだ。バルザック、フローベール、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫。ただ大学に入るころになると、関心が現代文学に移ってきた。特に夢中になったのは、同時代作家でもあった中上健次と古井由吉だった。
「遠くからは果実と見えた。冬枯れの大欅の梢近くに、黒い瓜ほどの実がたわわにさがり、暮れ方の強風に揺れている― 人の目は何でも見るものだ、何も見ていないものだ。三歳にならぬ娘の手を引いて、杉谷は女のことを考えていた。農家の生籬に沿って、樹の真下に来るまで、鳴声さえ耳に入らなかった。白く粘るものが袖に落ちかかり、見あげたとたんに、頭上で一斉に、けたたましく騒ぎだした。無数の鋭い嘴がうごめいていた。何羽かが枝をついと離れ、猛禽の翼の形を見せて宙を滑り、風にあおられ、身を翻して元の枝へ戻った。」
古井由吉「椋鳥」の冒頭。この文章に痺れた。子どもを連れて散歩の途中にムクドリの群れを眺めるというだけの光景なのに、異様な不穏さが立ち込めている。古井の文章は呪文のようであり、読んでいるだけで異次元に引き込まれるような気がした。二十歳くらいからの二年間は、古井の文章をほとんど暗唱するように読んでいたと思う。内容はほとんど頭に入っておらず、言葉の響き、音のリズムこそが肝心だった。読んでいるうちに酒でも飲んだように世界がぐにゃりとゆがむ。
本に限らず、映画でも音楽でもいいのだけれど、若いころは好きな作家や作品に「感染」してしまうということがあると思う。熱に浮かされたようにその作家のことを考え、その目を通して世界を見ようとし、自分の文章までその模倣になってしまう。やがて病から癒えるようにその没入からも覚めるのだが、そうやってしか身につかないものはある。
『古井由吉自撰作品三 栖/椋鳥』
古井由吉著
河出書房新社