コラム
2021/07/01
6月。喘息の季節である。私の身体の中で、梅雨時期特有の不安定な気圧を最初に感知するのは、気管支だ。気管支に羽毛が散らされているようなこそばゆさを感じるようになれば「ああ、今年も梅雨がきたか」とカレンダーを眺めることになる。
幼いころから、季節の変わり目が不得手だった。とりわけ梅雨の入り口は、まだ身体が小さかった私にとっては大きな試練だった。喘息特有の呼吸音がひゅうひゅうぜろぜろと骨にまで響き渡る様子が恐ろしく、背中を丸めて目を閉じて眠れぬ夜をやり過ごしていた。そんな夜には、自分は洞窟なのだと想像した。洞窟の中には傷を負った大きな獣がいて、その獣が雨風の音を聞きながら荒く息をついている。私の身体に響くのは、その獣の呼吸音だ。獣の傷が治り、雨風が止めば、この音も止まる、と自分に言い聞かせた。想像の獣は大きく、ライオンのように逞しい肢体を持っていて、体温が高い。名前もない獣のぱさついただいだい色の毛を丹念に撫でてやっているうちに、短い眠りが何度か訪れる。その繰り返しで毎年の梅雨をやり過ごすうちに、私の手足は伸び、大人になった。
小さなころの私は、自分の身体こそが洞窟で、その内側に唸る獣を飼いならしていると想像してきたけれど、だんだんと身体と獣の境目が曖昧になり、獣を撫でているのが自分なのか、撫でられている自分が獣なのかわからなくなってきた。人間は誰でも猛獣使い、という中島敦の『李陵・山月記』(新潮文庫)の一節をふと思う。『山月記』は、中国の唐の時代を生きた傲慢な秀才、李徴が、詩人となる望みを断たれて虎に変身してしまった経緯を友人に語る物語だ。物語の中で、李徴は涙ながらにこぼす。「一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?」
『山月記』を書いた中島敦も喘息持ちで、治療のために出向いたはずのパラオでは酷い湿度に悩まされていた。雨を眺め、喘鳴で肋骨を鳴らしながら、私は今日も、私自身のような、私の内側の誰かのような獣を撫でつつ、中島敦が飼いならしていた虎のことと湿気にくもるパラオのことを考えている。
(筆者は毎号交代します)
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